身体への意識は自分の演技へのチェック機関
高杉:いよいよ近づいてまいりましたね。どうぞよろしくお願いします。
隅地:よろしくお願いします。
高杉:まずは簡単に今回のワークショップの趣旨を説明させていただきますね。
隅地:はい。
高杉:これは現代舞台俳優、だけの問題かどうかは分かりませんが、身体性の喪失というのが大きな問題になっていまして、
隅地:はい。
高杉:やはりテキストのイニシアチブが強いので、つまり言葉には意味があって、その意味には感情や状況やドラマが乗ってきますので、その感情、つまり主観に飲み込まれやすいということがあると思うんですね。
隅地:うんうん。
高杉:けど、そこに対してある程度客観性を持たないとその感情もうまく扱えないだろうと。その客観性を持つための方法として身体への意識を強く持つことが有効ではないかということなんです。
隅地:はいはい。
高杉:もちろんダンサーのような身体の扱いが、まあできるようになればなったでものすごい武器になるでしょうが、もっと根本的な部分でセリフを言いながらも自分の身体の隅のほうまで意識を持っていられたらいいなと思っていて、そのための橋渡しにこのワークショップがなるといいと思っているんです。
隅地:ええ、ええ、ええ。
高杉:あくまで「橋渡し」なんですよね。ワークを受けて急に何かできるようにはならないので。
隅地:そうですよね。うんうん。
高杉:茉歩さんは演劇をご覧になることって?
隅地:ありますね。そんなにたくさんは観てないですけど、拝見する機会はありますね。でも、たまたま私が観たものがそうだったんでしょうけど、セリフより動きに重点が置かれているように感じるものや、セリフがなくても動きがずっと俳優さんの身体に乗せられているようなのが多いですかね。
高杉:ふんふん。
隅地:で、これはだいぶ前なんですけど、南河内(万歳一座)の 内藤(裕敬)さん がNHKで「これからはカラダだ!」っておっしゃってたところをたまたま観て、でももう出かけないといけなかったんで、ほんとにその一言だけ聞いて、テレビを消して、出かけていったんですけど。
高杉:(笑)
隅地:あっ、お芝居の方でもこういうことをおっしゃるんだ、っていうのが、もう何年も前のことですけどすごく印象に残っています。
高杉:へぇー。
隅地:と言っても、一舞台ファンとして劇場に足を運んだ時に、お芝居されている役者さんたちが何て言ったか聞こえないっていうのはやっぱり嫌なんですね。セリフはちゃんと聞こえて欲しいし、逆にセリフはすごく聞こえるけど身体は極めて不自然な、仁王立ちとか、
高杉:(笑)
隅地:そういう経験をすることがあるので、おっしゃるように身体を意識することがその人のストックの中に入れば、演じることを見直したり、自分でちょっとチェックできたりっていうことに繋がるんじゃないかなぁという気がしますけどね。
高杉:そうですね。で、その身体のチェック機関みたいなものが機能し始めると、恐らく俳優としてアウトプットする表現のチェック機能も強く働き始めるんじゃないかと思うんですよね。それって脚本と演出っていう強いイニシアチブの中で立ち回る俳優にとって、自立する足がかりになるんじゃないかと思いますね。無意識的な依存からの脱却とでもいいましょうか。
隅地:それはほんとうにそう思いますね。それが演出家の意図を汲み取りつつも、ある関係性をちゃんと保って自分に主体を残せるってことになっていくんでしょうね。
高杉:そう思います。
隅地:身体はそれの強い味方になってくれると思うんですね。極端な話、俳優さんが演出プランについて自分の身体に問えるってことになると素敵だと思いますね。
高杉:そうですね。
「身体への意識」をいかに定義するのか?
高杉:演劇は基本的にセリフを発するわけですけど、声を発するってことは呼吸を扱うってことで、この呼吸を意識しようと思えば当然身体を意識しなければならないですよね。
隅地:ええ、ええ。
高杉:そこで呼吸器官だけを使って呼吸するんじゃなくて、手足を経由して空気を吸い上げて、またそこを通して排出する、ってことにするとそれだけで身体への意識が変わってくるんですよ。
隅地:うんうん。
高杉:で、その身体を通った呼吸に声を乗せたら、やっぱり身体は楽器でもあるので、身体を通した分だけの振動を得た、深みのある声になったりするんですよね。
隅地:はいはい。
高杉:もちろん口先で喋ることが有効なときもあるし、選択なんですけど。でもそもそも人前に表現として身体を晒す、そして発話のために呼吸をコントロールするという圧倒的に身体に根ざしたタスクが前提にあるんであって、感情うんぬん以前の問題としてこれは立ちはだかっているんですよね。
隅地:なるほど。それはすごく納得出来ました。でもその呼吸や発話のことなんかは俳優さんは同意した上で、実感もする必要がありますもんね?
高杉:そうですね、分かることとできることは違いますしね。できたとて、それを実践の場でどう使っていくかっていう次の問題がありますし。難しいです。
隅地:身体を意識するっていうことがどういうことかを定義するのも難しいと思うんですけど。
高杉:はい。
隅地:例えば身体のフォルムを気にすることと、筋肉感覚みたいなものを内観できてるかっていうのは違う意識だと思うんですね。
高杉:うんうん。
隅地:それがどのレベルで意識されてるかの差っていうのは俳優でもダンサーでも表現の形として確実に出ますよね。
高杉:そうだと思います・
隅地:だから俳優さんが持っておられるといいだろうなと思っているのは、前から見てどう見えているかっていうのを意識するのは、もちろんそれも大事なんですけど、それよりもっと大事なのは、もっとその、例えばお腹の中の感覚っていうか、それの使い具合というか力の入り具合というか、うーん、まあそれでいい得てるとも思わないんですけど、まあそういうことで例えば身体を止めたとしても、その止まりの深さって無限のグラデーションがあるって感じなんですね。
高杉:なるほど、なるほど。
隅地:だから「ストップしてください」っていうような、とても簡単な一様なものではないんですね。だからその知覚の目盛のようなものを細かくしていけばいくほど、それは無限に刻めるんだと思うんですけど、きっと演技をしていく上でなにがしかの説得力のようなものを纏っていけるんじゃないかと思います。
高杉:ああ、そうでしょうね。
隅地:その目盛が荒いと、例えば力を入れてるか抜いてるかくらいしかないとしたら、うん、そんなもんじゃないですよね?
高杉:うんうん、細かく刻んでいかないと。
隅地:そこを少しでも細かくしていければ、それはダンサーにとってももちろんそうですけど、俳優さんにとっても意味のあることかなという気がしますね。
高杉:いやー、本当にそうだと思いますね。まずは自分の身体を全部自分の身体だと思えること。それだけでもやっかいなので、私にとっては。なのでまずはそれをただただ感じたいということ。胸から上だけで芝居をしないということ。残りの部分も意識化に置きながら、同じ熱量で芝居をするってことですけど。
隅地:同じ熱量でね。
高杉:はい。それができるとほんとに芝居が変わると思うんですよ。
隅地:はい、変わるでしょうね。セリフを言っていなくても、その人がそこにいるだけですごい存在感になるでしょうね。
高杉:はい。そこに細かい目盛をもった感覚が備わるとなると、うん、わくわくしますね。
場所や時代の身体感覚
「荻窪とかいうところ、国分寺っていうところ」
高杉:4~7月のワークショップでたくさんの受講者の方に来ていただいたんですけど、それぞれに俳優としてのバックボーンや経験、思想があるわけで、もちろん講師の皆さんにもそれぞれにそういったものがあって、つまり誰のどんな言葉やワークがどうフィードバックされるかっていうのはほんとに千差万別なんですよね。
隅地:そうでしょうね。
高杉:ある受講者の方はこのワークを受けて、風の感じ方や川の流れる音や緑の匂いなどすごく敏感に感じるようになったっておっしゃるんですね。
隅地:へぇー。
高杉:つまり自分の変化によって世界が一変したってことなんですけど。そういうのは面白いなと思って。
隅地:うんうん。
高杉:当然、そうなれば芝居も変わるでしょうし、
隅地:変わるでしょうね。
高杉:視覚情報が支配的な我々にとって、
隅地:そうなんですよねぇ!
高杉:ええ、そんな我々の見えてる世界が一変するってことは、視覚以外の感覚が呼び覚まされたんでしょうから、それってすごく身体的だとおもうんですよね。
隅地:そうですね。なんかやっぱり今もおっしゃった視覚情報に偏りがちな現代社会を生きている中で、他の感覚が退化していると思うんですね。
高杉:はい。
隅地:だからもしかしたら昔だったら、家の中にいても門口に誰か来たら気がつくような、すごく極端な例ですけど、そんなこともあったと思うんです。遠くで動く人をもっと察知できてたんじゃないかって。でも今は少し鈍感になってる気がするんですね、私も含めてですけど。
高杉:はいはい。
隅地:私、あの、ある時東京で仕事があって、中央線っていうのに乗ったんですよ。そしたらちょうど帰りのラッシュの時間帯で、ものすごい混雑だったんですよ。東京から立川に向かってたんですけど。
高杉:はい。
隅地:すごい混んでたんですけど、東京から遠ざかっていくわけだから徐々に空いていくわと、この田舎暮らしの根性で、思ってたんですね。そしたらもっと乗ってくるんですね、途中から。荻窪とかいうところから人がどんどん乗り込んできて、
高杉:とかいうところ(笑)
隅地:もう国分寺っていうところまでは、身体が押されて変な形になったらもうその形のまんまで、汗びっしょりになって、もうおみやげの箱なんかもぐっちゃぐちゃになって、お尻はもう半分知らんおじさんの足の上になって、ていうことなんですけど、「これ嫌ですよね、あなたも?」なんて思うのに、何ともない感じなんですよね。
高杉:はぁー。
隅地:だからそれはもう自我の防御規制っていうんですかね。プチンってどっかを切っていて、能面のような涼しい顔をして、この距離で(手を顔にくっつけんばかり)文庫本を読む、携帯を打つ、みたいな。
高杉:(笑)
隅地:これ毎日やってるのかって、どっかおかしくなるよねって思いました。
高杉:へぇー。
隅地:乗ってる時だけその感覚のスイッチを切って、降りたらまた入れるみたいな切り替えがそんなに上手にできるだろうかって思ったんですよ。
高杉:なるほど。
隅地:私たち、もう降りた時ヘトヘトでしたから。
高杉:げっそり(笑)
隅地:乗ってる人たちからしたら「乗り慣れてない田舎者」って分かるんですよね。それはもう歴然と。
高杉:でしょうね。
隅地:慣れてる人たちはほんとに平気の平左で。これは極端な例かもしれないですけど、そのセンサーや感覚の切り替えやオン・オフをどう自分の中に持っておくかっていうのはありますよね。
高杉:そうですね。
自分で考え続けるためのワーク
自立という創造性
高杉:私ね、4~6月のワークは全部受けさせてもらいまして、でその中で面白い気付きがいっぱいあったんですけど、そもそもの部分で身体を動かすのがすごい気持よかったんですね。
隅地:そうですよね。
高杉:私なんかかなり身体を使っている方だと思うんですけど、
隅地:そうだと思います。(笑)
高杉:それでも細胞が活性化するような、生命の躍動みたいなのがあって、しかも適度な運動が前頭葉も刺激するのか、頭も回り始めるんですよね。
隅地:そうでしょうね。
高杉:それだけでもすごい意味があるなと思ったんですけど、なんか気をつけねば!
とも思ったんです。
隅地:?
高杉:っていうのが、本当に気持ちよくて、爽快感、もっというと発散のカタルシスみたいなのがあるんですよね。
隅地:ああ、なるほど。
高杉:感情やドラマを扱う上でカタルシスに飲み込まれないように、って始めたこの企画で今度は運動による発散のカタルシスに飲み込まれたら、なんのことやら分かりませんもんね。
隅地:それはとても想像できますね。ある意味麻薬なんですよね、それって。
高杉:そうでしょうね。
隅地:でも麻薬が必要な身体っていうのもあって、発散のカタルシスの提供を目標にワークショップをすることもあります。
高杉:そうでしょうね。もちろんそうだと思います。
隅地:それが入口になってもっと知っていこうって思うこともあるでしょうし。
高杉:はい。
隅地:ただ今回は全部分かる内容にしないでもいいのかなと思ってるんです。なんか責任逃れみたいですけど。(笑)
高杉:いえいえいえ。(笑)
隅地:私この頃すごく思うのが、不安になって帰るっていうのがすごく大事なんじゃないかなってことなんですけど。すごく楽しかった、とか、思ってるとおりだった、とかも大事なんですけど、やったことを自分はちゃんと分かったんだろうか、とか、もしかしたら誤解してるかもしれないっていうことをできれば長く考え続けられるキッカケになるといいなと思うんですね、そのワークが。
高杉:そうですね。それはいいですね。
隅地:そんなことがしてみたいっていうのが自分の中の願いとしてありますね。
身体を使うワークで、自分自身がナビゲーターとして注意しなければと思うのは、ダンスのワークショップにおいても言葉ってすごく強い力を持つということなんですね、やっぱり。
高杉:なるほど。
隅地:だからナビゲーターが誰かの身体についてある評し方をしたということが、瞬時にその場を支配してしまうってことがよくあって、
高杉:そうでしょうね。
隅地:この頃そういうことに対して「あれ?」って思うことがあるので、「あなたこうですよね、今のはどうですよね」ってことを前ほど言わなくなりましたね。
高杉:ああ、そうなんですね。
隅地:今回は役者さんが来てくださるってことですけど、今日初めて踊りますっていう方が混じっているダンスのワークショップもありますよね、経験も年齢も不問の。17年踊ってますって人も今日初めてって人も混在してる。そんな人たちが同じように取り組めることをシンプルにやった後に、例えば、今10分くらいやったことを1時間続ける、あるいは丸1日続けるとして、それでも見続けたいと思う身体を見つけましたか? って聞くんです。お互いに見合いっこして。そしたらバッと空気が変わるんですよ。
高杉:へー。
隅地:なんか、そういうことを思って人の身体を観るっていうことも大事だな、と思い始めて。ワ―クをうまくやっている、ナビゲーターの意思を汲み取って、っていうことも大事ですけど、自分が見る立場になった時に自分にとってすごく魅力的な身体っていうのが、それとはまた少しずれたところにあってもいいなと思っていて。そういうことに対する感覚も持って欲しいなと思います。
高杉:うんうん。
隅地:例えば私が「いいね」っていう人がいたとして、それをいいと思わない人がいたり、もっと違う人を魅力的だと思ったり、っていうことがワークの場ではあってもいいと思うんです。
高杉:うんうん。
隅地:すいません、なんかわかりにくい話で。
高杉:いえいえ、そうだと思いますよ、私も。自分で考え続けるとか、人に流されない自分の価値観を洗い出すワークっていうのはすごく惹かれますね。
隅地:惹かれますよね。もちろん出来るとも思ってないんですけど、でもそういうものであればいいなと思っています。
高杉:今回、俳優としてどう舞台に立つかっていうことを自分で考え続けていく、つまり自立するってことを目標として、演出家と拮抗できる存在になっていこうということでやっているワークなので、
隅地:大事だと思います、それ!
高杉:もちろん演出家の指示を確実に具現化できる技術力も必要だし、あるいは一アーティストとしての自分の考えを現場で提示して、それを共演者や演出家と擦り合わせながらちゃんと作品を創っていけることが大事なんですよね。
隅地:はい。
高杉:ダメ出しをされないための演技ではなくって、
隅地:そうですね。
高杉:ちゃんとそこにクリエイティビティを発揮できることを求めていて、
隅地:すごく豊かですよね、それって。
高杉:そうなんですよ。脚本と演出のイニシアチブが強い中でも俳優がきちんと自立することが大事で、そのためにはずっと「演技って、演劇ってなんなんだろう」「自分はなんでこんなことしてるんだろう」なんてことを煩悶していなければならなくって、結局自立するってことは悩み考え続ける入り口に立つってことなんだと思うんです。
隅地:はいはい。
高杉:なので今回のワークショップは答えを求めるというよりは、茉歩さんがさっきおっしゃったようにそこで受けた刺激について個々人で考えていかなければならなくって。
隅地:そうですね。
高杉:そうやってワークショップを通じて考え始めたことが、そのワークの内容にとどまらず、そのまま俳優としての長い深い思考に繋がっていくことがよかろうと思いますね。
隅地:ほんとにそう思います。
昔、武術の先生のワークショップを受けた時に、1週間くらいプログラムが続くものだったんですけど、
高杉:はい。
隅地:初日にパツンと何をおっしゃったかっていうと、、、やっぱりかっこいいなと思ったんですけど、
高杉:はい。
隅地:わしのこれを受けて何か変われるって思ってるような、これを受けさえすれば1週間後に何かになってるなんて思ってるようなやつはなんちゃ変われへんで、って。(笑)
高杉:(笑)
隅地:まず言うとくわ、っておっしゃったんですよね。もう「ははー!」って思いましたね。
高杉:(笑)
そんなこと僕らも分かってるけど、でもいく時にはちょっとだけ淡い期待を持っていきますもんね。
隅地:もちろんですよ、もちろん!(笑)
なんかでもね、思うのが、例えばワークショップの一つのメニューを体験したとして、それがこう、自分ができるものとかここはもう卒業してます、とかそうやってポイポイ捨てていけるもんじゃなくて、それこそお芝居始めて半年の方でも30年の方でも、自分の今の状態をチェックできる、役者としてのコンディションを知れるっていう素材がいくつかある、ちゃんと定点観測できるっていう、そういう素材・材料をいくつかお持ちになってるといいだろうなと思っているので、そういう風に使って頂けるものをお持ちできたらなとは思っていますね。
高杉:なるほど、なるほど。
隅地:やっぱり身体ってうろうろ歩きまわってるのと立ちっぱなしなのとずっと机に向かっているのとでは変わるじゃないですか?
高杉:はいはい。
隅地:そういう身体の具体性、っていうんですか?
高杉:うん。
隅地:非常に具体的な部分を持つというか、使うというのは力になるなと思うんです。
高杉:わあ、しっくりきますね、その「身体の具体性」っていう言葉が。こんなに具体的なものなのに、具体的に捉えきれなかったり。
隅地:そうなんですよ。簡単に身体と遊離できますよね、やっぱり精神がある以上、といいますか、思考してしまう以上。
高杉:うんうん。随分ワークの雰囲気が伝わってくるお話が伺えました。
隅地:ほんとに楽しみです、私。
高杉:私も楽しみにしています。それでは当日、よろしくお願い致します。
隅地:こちらこそよろしくお願い致します。ありがとうございました。
高杉:本当に今日はありがとうございました。