京都舞台芸術協会プロデュース公演演出家公開コンペティション講評

京都舞台芸術協会プロデュース公演(2012年度)の演出家公開コンペティションの各審査担当の講評です。

ごまのはえ 評

今回の6作品を観させてもらうにあたって、私は二つの軸をもって観ることにした。一つは演出家としての着想の豊かさや独創性。もう一つはその着想をどれだけ具体化できたか。この二つの軸をもとに以下に私の感想を述べさせてもらいます。
着想において楽しかったのは、中谷さんと羽鳥さんだった。
中谷さんの上演は、戯曲をもとにした中谷さんによる創作だった。それも演出家としての創作ではなく同じ劇作家として戯曲を書き換えている点で、評価はわかれるだろうが、私は充分楽しかった。より正確にいえば楽しさが伝わってくる上演だった。想像することの楽しさ、共同者と語り合う楽しさが伝わってきて、それだけで羨ましい気持ちになった。残念ながら選外にさせていただいたが、創作者として充実した様子が伝わる上演だった。
羽鳥さんの上演も中谷さんと同じく戯曲から遠く離れたものだった。しかし中谷さんの手つきとはまったく違って、「演劇をいかにすべきか?」という問題意識による戯曲の破壊だったように思える。その上演を無理に言葉にすれば、舞台上で二人の女性がふらふらしているだけ……だったが、舞台でいま行われていることが、舞台でいま行われていないことに、誘い込んでくれた。羽鳥さんが何を意図したのか、未だにわからない私だが、上演中は自分なりに脳内で劇をめぐらせることができた。私の脳内劇はなかなかに面白く、半分は羽鳥さんのお蔭だと思っている。豊かな時間だった。
このお二人の着想が私にはとても面白かったのだが、それをどれだけ実現できたかは疑問に思い残念ながら選外にさせていただいた。
着想の実現という軸において手堅く実力を発揮されたのが、寺戸さんと柏木さんだった。お二人とも一つ一つのセリフを丁寧に耕しておられ、役者さんがとても魅力的に見えた上演だった。
寺戸さんの上演は、お芝居の一つ一つのシーンがまるで油絵のようだった。音響、照明、役者さんの立ち位置を駆使して一つ一つのシーンを構成する手腕に感心させられた。ただそれらの効果が少しずれてる気がした。戯曲が内包しているドラマを引き出すための効果ではなく、戯曲全体にざっくりと投げ網された効果に思えた。言いかえると、作品全体の印象をコントロールする意志は強く感じられたが、それに比べて登場人物一人一人の立場と選択にスポットをあてたデレクションが弱いように感じた。この違いがずれとして感じられたのかもしれない。
柏木さんの上演は、六作品中もっともシンプルなものだった。「シンプル」とはもちろん私の勝手な決めつけだが、戯曲と向き合いそこから演出家の自己表現を引き出すのではなく、まるで臨床医の手つきで戯曲に喋らせた上演だった。
舞台の黒布をまくりあげ劇場の白壁を見せたこと、舞台奥側の洗面台の扉をあけて空間を広げたことなどもとてもよい判断だと思う。空気が軽くなったおかげで戯曲がもっているのどかさが表現できたように思う。柏木さんの上演を観てはじめてこの戯曲の魅力に気づかされた。柏木さんを選ばせていただいた一番大きな理由は、田辺戯曲との相性だ。柏木さんの平明な知性をもって、田辺戯曲の正体を暴いてほしいと願っている。
六人の演出家の皆様、並びに俳優、スタッフの皆様、厳しい条件のなかで見ごたえのある上演をしてくださり本当にありがとうございました。

丸井重樹 評

柏木俊彦


6名の演出家の中で最も戯曲の魅力を素直に表現したのが柏木さんだった。書かれた台詞を丁寧に俳優に落とし込み、表現する。他の演出家が何かしらの仕掛けを考え、オリジナリティを出そうとする中、素直に戯曲の内容が立ち現れることに衷心したことが良かった。特別なことが言いたいわけではない、余計なことをしなくとも、俳優を通じて見えてくる。「不動産を相続する姉妹」という戯曲の世界観であり、その中に生きる登場人物たちの世界観である。ただ、個人的には、もっと柏木さん自身の世界観も見たかった。
ラスト、冒頭のやり取りが繰り返されようとして、終演となる。作品が戯曲の立体化で終わらず、最後のシーンがあったことでほっとした。舞台上で行われるやり取りは虚構で、かつ<生きて>いなければならないという、現代演劇の問題に向き合っていない作品はつまらないと思う。一緒に作品を創る中で、そのことは忘れずにいたいと思う。

中谷和代


戯曲の解釈に<正解>はない。では<不正解>もないかといわれれば、それは違う。<誤読>と<読解不足>は異なるからだ。思い切った<誤読>は、戯曲に新たな命を与えるけれど、読み込みが甘いと<ただ都合の良い解釈>になってしまう。「三姉妹は家から出ていけない」という<解釈>を<誤読>にまで高めるためには、もっとディテールにこだわらなければならなかったのだろう。
ある程度の妄想は必要で、別の作品からのイメージの引用もありだ。アイデアは見え隠れしていた。シーツに包まってほとんど姿を現さない三女や手だけしか見えない次女、放り込まれる長女の荷物、ビクビクする執行官など。しかし、それらアイデアのすべてが明確な動機に欠けていたし、作り込まれてはいなかったように思う。思いつきの域を出ず、観客に対する説得力が足りない。次女の手だけしか見えないこと、執行官が三女を襲う理由、投げ込まれる荷物が長女のものであることをどうやって判らせるのか、あるシーン(台詞)がループするのは何故なのか?
そもそも「私はこのように読みました」という<解釈>の先に何を見せようとしていたのだろうか。同じ戯曲を複数の演出家が上演するコンペティションであるという事を除けば、観客が観たいのは演出家の世界観であり、<解釈>ではない。「こう読みました」「…で?」で終わってしまう。「面白い」と思ったアイデアを説得力を持って実現し、<解釈>を<誤読>という世界観の提示に持っていく必要があったように思う。

羽鳥喜朗


舞台があり、客席があり、舞台に俳優がいて、客席に観客がいて、俳優が舞台上で何かしらの演技を行い、客席の観客はそれを観る。戯曲があり、その中のト書きと台詞を具現化する。演劇とはそういうものだ、と思っている人には、羽鳥さんの作品はよもや演劇には思えなかっただろう。現代芸術はいかに<そういうものだ>を疑うかだと思っていて、演劇でも美術でも音楽でも、疑いがないものは古典となる。<そういうものだ>は過去に多くの人たちによって作られたものだから。結果的に、既存の枠組みに乗っかるとしても。羽鳥さんの作品は、前衛だとか奇を衒っているだとか表層的だとか言われるかもしれないし、少なくとも現段階では<強度>を持ち得ていない。しかし、私は奇をてらっているとも、格好つけているだけとも思わなかった。彼の姿勢を評価したいし、今後の展開に注目したい。6つの作品の中で最も刺激的だった。
戯曲の中から<義務(の履行あるいはそれへの反発)>を抽出し、そのことを俳優を使って表したいという演出の意図は、成立しそうで成立しなかった。俳優が舞台上で、自分の意志やもう一人の俳優の意志や観客席の意志を汲み取って意識化し、動きへと転化させていきながら、台詞の断片を語る。会話でもないし、朗読でもない。二人の俳優と観客席の間に、浮かんでは消える空気。そう、何かしら産み出してはいたのだ。しかしそれは一瞬で消えていく。積み重なってはいかなかった。マレビトの会が上演した『HIROSHIMA-HAPCHEON』という作品を思い出す。それは展覧会のように会場に俳優が配置され、観客は自由にそれを観てまわる方法だった。もしここがギャラリーで、観客が移動自由なら、浮かんでは消える空気の一瞬を捕まえて帰ってもらえたかもしれない。しかし今回の上演では、30分という時間と舞台と客席がしつらえられていた。もちろんそれを想定して演出されていたのだろうけれど、最後まで「なぜこのしつらえで上演するのか」という疑問が拭えなかったのが残念だった。
補足ながら、現代演劇(あるいは演出)の評価基準が、その<形式>に寄り過ぎる風潮がある。初めに書いたとおり<形式>を疑うことは重要だし、もはや必須だとも思うが、あくまでも<形式>は手段であり、その先に何を問うのかが重要だ。もっといえば<形式>がいかに新しかったとしても、受け手に伝わらなければやはりその作品は評価されるべきではない、と思う。羽鳥さんは、劇を成立させるための<形式>に自覚的な演出家だ。そのための言葉を獲得しようとしていて、俳優たちとは共有できていたように思う。ただそれは、そう簡単に観客にまで届かない。さらなる試行錯誤と挑戦に期待したい。

小嶋一郎


ポストトークで聞いた演出意図を聞くまでは、モヤモヤしていたけれどもとても面白い作品だった。しかし「自分たちの変化を飲み込むためにロールプレイングをやっていた」という解釈だったのだとしたら、それはほとんど観客に伝わっていない。少なくとも私には全くその意図が伝わらなかった。しかもその意図が「戯曲の構造上、姉妹が家を出ていくに至る時間が短い」「だから、自分たちの置かれた状況を納得するために、(何度か)自作自演している」で、その模様を見せられたのだとしたら、私たちはそこから何を考えれば良いのだろうか。意図が成功したとしても、それは演劇のための演劇にしかならない。
執行官の存在を抽象的な<圧力/国家>と捉えて、登場させないという、応募時に書かれていた演出プランは面白かった。事実、私たちは執行官という具体的な存在によって受ける圧力以上の力を、国家から受けているわけで、どこかの国の見知らぬ姉妹の経験が、私たちの身近な経験に接続される可能性は高かった。そうなっていれば、小嶋さんの作品は説得力をもって観客に伝わっただろう。家を形作っていた白いテープが国境線となる瞬間や、照明が変わり、姉妹が家を出ていくことを決心する瞬間など、明らかに心動かされた。残念だった。

田辺剛 評

柏木俊彦


柏木さんの演出は、一見テキストに書かれてあることをそのままやっただけのようで、その素朴さのようなものが特徴だと思われるかもしれない。それを良しとするか退屈だとするかというのも論点の一つではあろう。しかし、彼の演出においては、ブラックボックスに仕立てられた舞台の幕を取り払って劇場の白い壁をむき出しの状態に戻し、そこを自分の作品が上演される舞台にしたことが、実はとても肝心だったのではないかとわたしは思う。あの黒幕を取り外しさえすればいいということではない。自分たちの作品はどんな空間に置かれるのがもっとも適しているのか、劇の外部までも見渡す視点、自分たちの創作をどこまで俯瞰して見ることができるのかということ。そうした注意があって、かつそれが実際の上演にも十分効果をあげていたように思われたのだ。終幕で演じられた”物語(歴史)は繰り返す”示唆は蛇足に思われたし、俳優の演技に疑念もあるにはあるけれど、劇空間そのものを見据える柏木さんの視点はそうした腑に落ちないところを補って余りあると思った。大胆な解釈や冒険する奇抜さは確かにないかもしれないが、柏木さんのしたたかさにわたしは信頼できるものを感じたのだ。

楠毅一郎


執行官が人間で姉妹が動物だという発想は、おそらく誰にもなかったのではないか。わたしもそのこと自体は興味深かった。それはつまり法による強権の前では人も家畜もたいして変わりなく、彼らは踊るほかないということなのか、などと想像を巡らせることは可能だった。それにしても、例えばあの踊りというか、あのパフォーマンスの半端さはなんだろうと思う。出演者の技術が未熟ということならば、優れた人材がいないのならば演出プランを変更すべきだったと思う。そしてなぜ台詞を見えないところから、マイクで、アニメのキャラクターのような声のやりとりで、入れ込むのだろうか。家畜を目の前にした執行官がどうしてあんな声に付き合わなければいけないのか。家畜を前にしたならば粛々とその仕事をこなせばいいだけではないか。家畜を前に何を躊躇するというのだろう。パフォーマンスと声の関係も安直に思われて、つまり台詞に従属する身振りをするだけになっているように思われて、それならばなぜ踊る彼ら自身が発話してはいけなかったのか。また「西の国」を中国と見立てるのは、それだけではいいとも悪いとも言えないけれど、そう言い切ることで、あの劇世界で起こっていることやそこにいる人々(家畜)にどう関わりがあるのかが見えなかった。ただ演出家の思いを実現しただけに過ぎないように思われたのだ。このように、わたしにとってはあまり良くない意味でのひっかかりが多い上演だった。

小嶋一郎


強権を発動する法を象徴する存在でありながら、妹には駅前の肉屋の店員に似ていると言われる、あの執行官の得体の知れなさ。それを”不在”にすることで、つまり実際には舞台の上にいないのに他の俳優がそこにいる体で演じるというやり方で表現したのだろうと思った。実際には演じる俳優がいないのだから、観客はそこにいるとされる執行官はどんな存在なのだろうと想像を膨らませる。今回の6つの上演で、”執行官”はどこもうまくいっていないとわたしは思っているのだけれど、この小嶋さんのやり方はそういう手があったのかと正直唸った。もう一つは、家屋の境界線としてひかれた白いテープがそのまま国境線になるという仕掛けだ。姉妹が、執行官のテープを張る様子を、実際にはそれを演じる俳優はいないわけだから、姉妹の視線が動いていくだけなのだが、それを経ただけでさっきまで家屋の境界線だったのが国境線に変わってしまう。こうした表現の手法は演劇ならではだとわたしは思っていてとても印象に残った。それにもかかわらず、それらの演出上の工夫が、工夫の”提示”にとどまっているような、工夫のわりには物語との結びつきがなぜだか弱いことが気になっていた。それが終演後のトークで小嶋さんから、あれは過去の出来事を受け入れるため?に姉妹がもう一度リプレイしているということで、執行官はだからそのリプレイのときにはいないのだという話を聞いて、その設定(持ち込まれたメタ性といっていいのか)が劇全体を複雑にした分、さまざまな工夫が劇を突き動かす力になるには弱くなったのではないかと腑に落ちた。確かに、劇場の水銀灯を点灯させて劇世界のありようががらりと変わったときには、あの姉妹に明確な変化が訪れたのだろうと思いはしたのだけれど。その複雑さには気づかなかった。選考会でも演出の工夫について以上のように述べたものの、それにしては劇全体としては弱い印象だという指摘に反論ができなかった。

寺戸隆之


開演前から暗がりに灯されているランタンやME(音楽)を忍び込ませるように流す手つきから、観客に”見せる”ということに対して意識の高い演出だと思った。また、死んでいる姉が床下にいるということを、舞台の下に視線を落とさせるのではなく、観客に対して正面にするということは、”リアル”っぽくやるよりも死んだ姉と対面する姉妹の表情や身体をきちんと見せたいという姿勢の現れにも思われて、そうした”見せる”ことに対しての丁寧さが印象深かった。ただ、俳優の出はけをやめてつねに舞台の上に居続けさせたせいなのか、劇全体の動きが小さいように感じられて、あのランタンの光が届く範囲までしか劇世界がないような、その小ささあるいは落ち着き加減が気になった。その小ささが元々の狙いだったのかもしれないけれど、そうであれば、例えて言うならランタンの光が届かない部分の闇の深さをもっと感じたいと思って、それはあの光や音の繊細さのわりに俳優たちの声量の大きさや一本調子な勢いといった演技が、カタチにはなっていても、濃淡の豊かな光や音とは不釣り合いだったのかとも思う。

高杉征司 評

楠毅一郎


姉妹が鳥と豚のかぶり物で登場したり、ムーバーとスピーカーに分かれて一つの役を二人で演じてみたり、中国の国旗が舞台上で翻ってみたりと、いくつかのアイデアで構成されていたが、どれも台本上の言葉尻を単語レベルで掬い上げただけで、作品解釈や演出家の思想というものにまで踏み込んでいなかったように思う。「会話しているようで本当はコミュニケーションをとっていない」と思ったから「かぶり物をかぶせてディスコミュニケーションを表現した」とのことだが、そのワンプランでこの作品は語り尽くせないのでは。ただ、あのおどけた空気感はつい思い出してしまう。

小嶋一郎


執行官を登場させないという奇抜な演出が必ずしもうまくいっているとは思えなかった。彼のセリフがないことによる情報の欠乏を補う効果を期待したい。そもそも「回想だから登場しない」というのは根拠が足りないように思う。その結果、執行官がいないことも姉が傍観していることも説明的に過ぎると感じた。しかし、当日の判断で水銀灯をつけたことは物語に決定的な変化を加え、見事だった。また、部屋の間取りのように貼られていた白テープが国境線と化し、それがはがされた時、部屋中に籠っていた負の密度がすっと抜けていく様は大きな空気の動きを作り出すことに成功していた。

柏木俊彦


「不動産~」という台本のもつ特異な浮遊感と説得力、そしてユーモアを自然な形で三次元に立ち上げる瞬間を幾度となく目撃した。シンプル故に力強い作品だった。妹と執行官の会話にある程度の力みが感じられ、その瞬間に空気感がすっと消えてしまうのは残念だったが、言葉なく粛々と椅子と机を並べる妹とじっと待つ執行官、という最初のシーンの空気には実に期待感を煽られた。長編をどう料理するのか観てみたい。

柳沼昭徳 評

小嶋一郎


唐突な物語の展開や登場人物の急激に心情が変化する、生理的な違和感を覚えることの多いこの戯曲を立ち上げるにあたり、ロールプレイング的な劇中劇であると枠付けることで、ひとクセある劇世界と客席との間を埋めようとしたアイデアに好感を持った。しかし、存在しない執行官を相手に語る三女とそれを傍観している次女との構図で語らせるには手数が少ないと感じたし、また登場人物の俳優然とした発語や訓練を受けたであろう身体が劇中劇と劇世界そのものとの差異を感じさせなかったことなど、これらのアイデアを具現化する手段の選択によって、作品が難解で高尚であるかのような印象を与えてしまったことが残念だった。

寺戸隆之


俳優、美術、音響、照明のあらゆるものに演出的な施しがなされてはいた。しかし、それらが作品、空間の構成物として効果的であったかというと疑問が残る。BGMのタイミングや、ランプの明かり、机と椅子の配置、整然と敷かれたテーブルクロスなどといったデテールは、寺戸さんなりの統制的な美意識やこだわりを感じさせるものだが、それぞれがどこまでも装飾の域を出ておらず、まとまりを欠いていた。また、ストレートな構築を試みているにも関わらず、俳優に対して施された外面的な統制は会話の成立や関係性のうつろいを失わせ、結果、観客の物語に対する理解を妨げているように思えた。

柏木俊彦


他の作品が演出の個性を主張しながらも、作品として今ひとつ成立していなかったのに対し、柏木さんの作品は最も戯曲の構造や関係性が明確な「話の分かる」作品だった。何でもない話をわざと難しく語るのは簡単だが、逆には技術がいることを改めて感じた。執行官と三女の造形に手を入れる余地が残っていたことは、柏木さんの演出作業がどこまで確信的なものなのかどうか、その判断を鈍らせるが、アイデアに依らず、舞台上の人と人、演出と俳優、舞台と観客、これらの関係性を劇場の中に自然に存在させようという手つきに強い共感を覚えた。

山口茜 評

柏木俊彦


書類審査の際、演出プランをご提出頂いた中で、唯一演技プランを書いて来られたのが柏木さんでした。田辺戯曲の世界観をどう解釈し具現化するか、という事に対して分析的な文章が多い中、柏木さんだけは「チェーホフかしら?」という文章で始まるメモのような短い文章を下さって、その中に、ご自身と俳優との関係の構築方法を書かれました。この時点では、演出プランとしては幾分他の応募者と比べ見劣りのするものであったかもしれません。しかし結果は予測を上回り、田辺戯曲の世界がぐっと眼の前に立ち現れたとき、私は冒頭の「チェーホフかしら?」がはったりではないと知りました。チェーホフの名前を出す事は誰にでもできます。でも、この人のチェーホフを観てみたい、と思わせる事は、中々難しい事です。柏木さんの、「人間」そのものに着目した演出が、ひいては彼の個性そのものだと感じています。田辺戯曲をどのように立ち上げてくれるのか、楽しみです。

楠毅一郎


楠さんの演出が、最初の発想どまりであった事が悔やまれます。三女の台詞の中に鶏肉と豚肉が出て来たところから、次女と三女を鳥と豚にしてしまう点は、バカバカしくて私は好きです。けれども、あるアイディアが頭に浮かんだら、その方法を徹底的に検証し、何度も立ち上げてみて強度を確かめ、時に取捨選択の決断をする必要があると思います。立ち上げると決めたのならば、今度はその強度をより強固なものに高めていく必要があります。鳥と豚に踊らせる、という発想も面白いのです。けれどもこの「鳥と豚が踊る」というイメージ上の面白さが、どうすれば舞台で、お客さんの前で、立ち上がるのか。その事の吟味が残念ながら足りないように感じました。演劇に高尚な思想は必要ないかもしれません、どんなバカバカしい事をやっても構わないと私は思います。しかしながら拠り所となる考え方抜きに演劇を上演するのは、やっている本人も苦しいのではないかと思います。どんなツールを使うにしても、要するに眼の前にいるお客さんとどんなコンタクトをとりたいのか、という気持ち抜きに、演劇をやる必要はあるでしょうか。

羽鳥嘉郎


最初の出演者の登場が圧倒的に面白く、笑ってしまいましたが、その後は分刻みで興味が失われていきました。方法が特異である事は一切問題ではありません。昨今、「演劇とはこのようなものだ」という前提を疑わない人の方が珍しくなってきましたし、京都でもその傾向が強まっていると思います。しかしだからこそ、「既存の枠組みを疑う」という姿勢自体を疑ってもよいのではと思いますが、それは横において、とにかく彼の「やり方」を責めるつもりはありません。問題は、上演中、私がここに居る必要が無いと思った事です。同時に、現段階ではまだ、田辺戯曲でなくてもよい、とも強く思いました。そうなれば個人としての私は私である必要の或るところへ早く逃げたい気持ちになりますし企画者としては、田辺戯曲でないといけない演出をした演出家と話がしたいと思います。私は「これは私に送られて来たメッセージだ」と思う事ができない現象に対して、どこまでつきあわねばならないのでしょう。別に私の存在を特別視してほしいわけではない。問題は、私があなたのやっている事をどう受け止めるかという極私的な問題です。ただ、私的な問題の先に、芸術的な感動はあると思いますし、その感動を引き起こす為には創作者は、私たちが人間であるという唯一の公的な理に真摯に向き合う必要があると思います。(感動というと涙を流したり笑ったりという風に捉えられると思いますが、「また次も観たい」と感じる、という程度の感情を含むと捉えて下さい)
残念ながら今回は、私たちは私的な事をやっているのだという意識が、羽鳥さんには無いと感じました。というよりむしろ、「枠組みを疑う」という行為に集中するあまり、その意識については棚上げされている気がしました。だからそこに自覚的であったなら、羽鳥さんの演劇は飛躍的に面白いものになっていたと思います。もちろん彼に言わせれば人間である事に興味があるからこういう事をやるのだ、という事なのかもしれません。しかしそれは残念ながら客席に伝わってきませんでした。いずれにせよ彼の語り口には非常に興味があります。という訳で、彼らが何を思ってああいった事をしているのか、そういうのをじっくりと聞いてみたい気持ちがむくむくわきました。羽鳥さんを取材したビデオがあったら観てみたいと思います。もちろん、どこかのロビーで公演をされているのを見かけたら、最低10分は足を止めて見つめる事ができます。それでいいのだ、と彼らも言っていたような気がしますがどうでしょう。